オノ暮らし

人も地球もハッピーになる「ステキ暮らし」を研究&実践するオノな夫婦のLabo. パーマカルチャー、オフグリッド、DIY、世界一周、旅…、などについて書いています。

こんにちは、はるです。

わたしたちの旅のテーマがなぜ「ステキな暮らし」なのか。
これからブログを書いていくにあたって、みなさんに知っておいてもらいたいこと、また、自分自身で確認しておきたいことなので、はじめにここで触れておきたいと思います。

併せて少し自己紹介を。
わたしのことを何も知らないまっさらな状態でこのブログを読んでいただくのも良いのかもしれませんが、少しでもバックグラウンドを知ってもらっていた方が、伝えたいことを理解してもらいやすいのでは・・・という期待を込めて。

記事の内容は、前回の夫まちゃが書いたことと重なる部分があると思います。
夫まちゃ、妻はる、それぞれの視点から書かせてもらいました。
なかなか長いです。でも頑張って書きました。
よければお付き合いください。

***  ***  ***  ***  ***

この旅を始める前のわたしの職業はソーシャルワーカー(以降ワーカーと略)でした。
病院の精神科で働く精神保健福祉士(PSW)です。

仕事の内容はごく簡単に言えば、精神的な疾患や障害を抱える人の社会復帰、自己実現を様々な制度や資源を活用しながら支援していくというもの。
クライエントは疾患や障害を抱える当事者だけではなく、その家族や関わる人々、大きく捉えるとその人が生活する地域や社会も対象となります。

退職までの5年の間に様々な仕事をさせてもらいましたが、主にはじめの3年弱は長期療養病棟を担当していました。
その名の通り、長期的に入院治療を受ける必要がある患者さんが入院している病棟です。

みなさんは長期の入院と聞いてどれくらいの期間を想像しますか?
数ヶ月?1年?5年・・・?
一年でも随分長い入院ですが、担当していた患者さんは10年以上入院中という方が少なくなかったです。
中には、20代で入院し、一度も退院できることなく半世紀以上もの年月を病院内で過ごし、そのまま生涯を終えられた方もいらっしゃいました。

精神科における長期入院は社会的入院ともいわれ、症状的には退院可能にもかかわらず社会の受け皿不足のために退院先が確保できず、入院が長期化するという大きな社会問題となっています。

なので、さき程書いた「長期的に入院治療を受ける必要がある患者さんが入院している病棟」という表現は正式には間違いです。
実際は、「長期的に入院治療を受ける必要がないのに、入院生活を余儀なくされる患者さんが生活している病棟」と言う方が適切です。

入院が長期化する中で徐々に退院意欲が薄れ、「退院したくない」と仰る患者さんも多くいました。
閉ざされた環境で不自由でしかないはずの精神科病院内での生活を、「(退院するより)ここにいる方がいい」という患者さん。
その言葉は、そのまま地域社会の未熟さを表しているように思えました。

その後、担当異動で次に担当したのが精神科救急病棟。
これはその名の通り、「精神科における救急医療を担う病棟」です。
初発(初めて精神症状を呈した)の患者さん、急性症状のために入退院を繰り返す患者さん、警察や救急、行政機関から送られてくる患者さんなど、精神症状が活発なため即時の入院治療が必要な方々が毎日ひっきりなしにやってきました。

貧困、労働環境の問題、介護、虐待、いじめ、ひきこもり、依存症、自殺未遂・・・社会問題を背景とした疾病、症状をもつ人々は後を絶ちません。
思春期の若者から高齢者まで、精神的なケアが必要な方は驚くほど多く、ライフステージのどの段階においても、誰もが精神的な不安要素を抱えているのは明白でした。

こうして現場で働く中で、様々な状況にある患者さんと出会い、社会の実情を知りました。
それは、ワーカーとしての自分の無力さを感じる日々でした。
疾病や障害故の生きづらさを抱える人たちにとって、現代社会はあまりにも厳しく、「自分らしく生きる」という大命題の前に「当たり前に地域で暮らす」ということのハードルがとても高く感じられたのです。

患者さんの病状がいくら医療の枠の中で回復しても、戻る先の生活や環境に無理があれば、再発、再燃を繰り返すという幾度となく目の当たりにしてきた事実。
無理や矛盾で溢れた歪んだ社会が、新たな弱者、新たな病者を生み出しているという終わりのない負のループ。
そしてその負のループをつくっているのは、現代社会を生きるわたしたち自身というまぎれもない現実。

目の前にいるクライエントと向き合いながら、その背後にある大きな壁の存在に、やるせなさを感じずにはいられませんでした。
いつもモヤモヤとした不全感がまとわりついているような状態。
それは、専門職であるソーシャルワーカーとしてだけではなく、この社会をつくる一人の人間として感じていた、現代社会に対する漠然とした違和感でもありました。

元気になった患者さんを送り出したい地域って?
元気でいられるために望まれる社会って?
今の社会のあり方を変えていかない限り、誰もが幸せに暮らすって無理じゃない??
「社会復帰」「職場復帰」って言うけれど、本人はこの社会に、もとの職場に、復帰することを本当に望んでいるんだろうか?

いつも自分の中であり続けていた問題意識。
同じような問いがグルグル、グルグル、頭の中で巡り続けていました。

そして、関わりの中で考えるようになってきた一つの仮定がありました。
それは、わたしたち自身の「暮らし方」が社会を望ましい方向に変えるキーワードではないかということです。

時間に追われストレスフルな暮らしを送る人々でつくる社会と、自然とともに自分のペースでゆったりと暮らす人々でつくる社会と。
どちらが余裕があり、人に優しい社会だろうか。

消費のために、稼ぐためだけの仕事をする疲弊しながらの暮らしと、可能な範囲でできる仕事を担い、必要なものを必要な分だけ産み出す暮らしと。
どちらが楽しくて、持続的で、本当に豊かな暮らしだろうか。

わたしたち自身の「暮らし方」次第で、社会のあり方はまったく違ってくる。
そんな考えを抱くようになってきたのです。

答えのない問いを考え続けている気がしていたけれど、実はとてもシンプルで簡単。
それは、つまり、「多様性を認める」ということ。
こどものときに「みんなちがって、みんないい」って教えられた。
生きていく上で大切にしないといけない基本中の基本。

目指したいのは、もっともっと多様でユニークな暮らし方を世間に増やしていくこと。
そうすることで、色々な暮らし方を認められる器の大きな社会になっていくはず。

示したいのは、限られた中からしか選択できない窮屈な生き方ではなくて、
自分で好きなように創造していく自由度の高い生き方。
そんな自由な人たちがつくる社会は、愉快でハッピーに違いない。

小さな枠に捉われるのではなく、その枠を広げていけばいい。
枠を取っ払ってしまえばいい。

こうして、「こんな社会であったらいいのに」という大きなビジョンを自分なりに思い描くようになりました。

・・・・

その一方で、自分の身を顧みたときにふとわいてくる疑問があったのです。

自分は理想の社会を作っていくために何ができているのか。
枠を広げ、枠をやぶっていける力があるのか。

そして込み上げてくる、本質的な問い。

社会がどうとか、人の支援がどうとかいう前に、自分自身はどうなのか。
胸をはって、「自分らしく生きる」ができているのか。
社会のあり方を良くしていくような「多様な暮らし」ができているのか。

答えは明確。
「NO」。

すでに、十分自由に、幸せに生きていたとは思います。
毎日忙しいながらも充実していて、楽しいこともたくさんありました。

でも、まだまだやりたいことはたくさんあるって、自分自身でわかってもいました。
今に100%満足しているわけじゃない。

たから、もっと自由に、もっともっと自分らしく生きていこうと思ったのです。
それがまさに「多様な生き方」のひとつになるから。
まずは、夢でもあった世界を巡る旅をしよう。そう思いました。

心強いのは、そのときわたしはひとりではなかったこと。
タイミングよく、隣にはパートナーとなるまちゃがいて。
彼も同じように、社会に対するムズムズを抱え、自分自身の生き方を模索していた一人でした。

二人で色々なことを話す中で、なんだか一緒にこのムズムズを解消していけるような気がしてきました。
「旅しようって思ってる」って話したら、「お、いいね、一緒にやろう」ってなってきて。
そしたら、段々ムズムズがワクワクに変わってきて、気づけば二人で旅をする計画をはじめていました。
(この辺のことは、次回の後編で書きたいと思います)

そんな訳で、ソーシャルワーカーとしての経験から、「より良い社会のあり方」を思い描くようになり、それは逆説的にも、自分自身の「自分らしい生き方」「自分らしい暮らし方」を追及することに繋がっていったのです。


冒頭でさんざんと暗いことばかり書いてきましたが、わたしはワーカーとして働くことが好きでした。
しんどいことはたくさんあったけど、仕事が嫌いと思ったことは一度もなかったです。

自分の関わりの先にはその人の暮らしがあり、「その人らしい生活」を実現するために共に歩んでいくことは、とてもやりがいを感じられるものでした。

どんなクライエントに対しても、変わらないのは「その人が望む生活のため」の支援を行うということ。
迷いながらも、悩みながらも、でも頑張ろうと思えたのは、そんな明確な目的があったからだと思います。

恵まれた職場環境であったこともあり、仕事を続けることで、知識も経験も増えてソーシャルワーカーとしては成長していけたと思います。
だけど、それと同時に、わたしはワーカーであり続けることに一種の恐れも感じていたのです。
プロになりたいけれど、なりたくない。
成長したいけど、いつまでもフレッシュでいたい。
働けば働くほど、感覚が麻痺していくような、狭い世界しか見れていないような・・・。
なんだかうまく言えないですが、そんな危機感も感じていたのです。

そんな想いも重なって、仕事を辞めて、旅に出ることを決めたのかもしれません。
ワーカーとしてではなく、まずは、一人の人間として成長するために。

わたしはまだまだ若輩もので、何よりも自分のしたいことをまず優先しました。自分のために生きることを選びました。
だけど、様々な葛藤を抱えながらも、志をもって現場で奮闘し続けている諸先輩方や仲間たちはたくさんいます。
わたしはそうして頑張る方たちをとても尊敬しているし、目の前の現実と向き合い、地道に実践を重ねていくことは、とても尊く価値あることだと思っています。

今、わたしにできることは、「自分の生き方」を追求しながらも、社会に対する問題意識や目指したいビジョンを忘れずにいること。
この旅を通して、人としてもうちょっと成長したら、また違ったかたちでソーシャルワークに携われたらいいな。
好きなら、きっとまた戻ってくるだろうな。
勝手ながら、今はそんな風に思っています。
そんなポジティブな気持ちで、次のステージに進めたのはとても幸せなことです。


なぜ「ステキな暮らし」がテーマなのか。
それは、わたしたちの暮らしのあり方が、現実社会のあり方にそのまま繋がっていくと思うから。
だから、自分たちで「ステキな暮らし」を実践していきたい。
「ステキな暮らし」がたくさん溢れる、より良い世界を目指していきたい。

そんな想いで、わたしたちは『ステキ暮らしLabo』を始めたのでした。


***  ***  ***  ***  ***  ***

はぁ~、長かった。
長文にお付き合いいだたきありがとうございます。

ソーシャルワーカーとしての経験から、わたし個人としての生き方に戻ってきました。
ひとまず、ここまでを「なぜ『ステキに暮らしたい』のか~妻はるの場合 前編~」とします。

続いて~後編~。
旅への想いと、わたしたち夫婦のはじまりのお話。
引き続きお付き合いいただけたら嬉しいです。

はるみ

こんにちは、まちゃです。

ということで、前回に続いて後編いきます。

今回も長いです。
この後の期間は自分にとっては、「こういう方向性を大切にしていきたいかも。」
と思ったことを、実際に行動して確かめるための期間だったように思います。

さて、大学卒業後の春から、僕は「緑のふるさと協力隊」として、
兵庫県多可町という農山村に1年間派遣されることになりました。

活動中は、古民家で一人暮らしをしながら、地域の農家の仕事や林業、
地域の祭り、役場の仕事、などなど、町にあるあらゆる仕事のお手伝いをしながら、
農山村の暮らしを知ることに集中させていただきました。
本当にたくさんの地域の方々にお世話になりました。
1年間の活動の様子はこちらのブログからも垣間見れます。↓

緑のふるさと協力隊 LiVE in 多可町(http://mshr29.blog78.fc2.com/)

多可町というところは、兵庫県のちょうど真ん中あたりにある中山間地域なのですが、
大きな街も比較的近くにあるので、それほどすごい山奥の田舎というわけではありません。

最初は、その「中途半端な田舎感」がちょっといやだったのですが、そのうちに、それもまた日本の多くの農山村地域の
姿なのだと素直に受け入れられるようになりました。

農山村といっても、ほとんどの人は勤め人で、農業だけで生活している人はほとんどいませんし、
都会的な暮らしに変化してきている部分も多く感じました。

しかし、それでも家で食べる野菜などは家でつくるし、地域のつながりも強く残っています。

生活に必要なお金は勤めで得たうえで、必要なものは、自分で作ったり、仲間と交換したりする暮らしも残っている。
ある意味で、こういう暮らしが一番強い暮らし方なのかもしれないな、と感じました。

また、もちろん農山村の厳しい現実も改めて直面することになりました。
いくら、僕が協力隊として「ここの暮らしには、こんなにいいところがあるじゃないですかー!」
といったところで、なくなりつつある集落はあるし、山は荒れているし、多くの知恵や技術もすでに失われてしまっていました。

しかし、そうした農山村の厳しい現実を目の当たりにしても、やはり農山村に残る暮らしの中に、未来社会のあり方への希望を
僕は感じ続けていました。

協力隊の1年間の任期が終わり、僕は次はどうしようかと考えました。

「ここに残りなよ。」と言ってくれる地域の方もいらっしゃいました。
他の地域に派遣されていた協力隊の同期の中にも、そのまま
地域に残る選択をした人が多くいました。
がしかし、僕は多可町には残らないことにしました。
僕は、まだまだもっと色んな農山村の暮らしを見てみたい、と思っていました。
それに何より僕にはまだ、「土地に根ざして生きる覚悟」がありませんでした。

「多可町の暮らしはこうだったけど、他の地域ではどうなんだろうか。」
「出来ることなら、日本中の農山村を回って、暮らしを見てみたい。」
と僕は思いました。

そこで、僕は、ある農業系の出版社に就職することに決めました。
その出版社では、農家や農山村で地域づくりに取り組む人向けの雑誌や書籍を作っていました。
そして僕は営業担当として、日本全国の農山村をバイクで回り、雑誌や書籍を売りながら、地域の暮らし
に関するネタも集める、という仕事をすることになりました。

日本中を旅しながら、もっと色んな地域の暮らしを見て回りたかった自分には、ある意味、ぴったりな仕事でした。
まぁ、実際は、ほとんど宿暮らしで家に変えれなかったり、休みも少なかったり、サービス残業だらけだったり、
数字も当然求められるし、ストレスばっかりたまるし、とキツく感じることもかなり多かったですが。

ちなみに妻のはるとは、協力隊時代に再会し、出版社の仕事を始めるちょっと前からお付き合いをし始めていました。
はるは、当時、大阪の病院でソーシャルワーカーとして働いていました。僕とは、取り組んでいる分野は違いましたが、
世の中に対する想いや生き方にすごく共通しているものを感じる人でした。
営業の仕事をしている間は、休みも限られていたし、遠距離だったので、会えるのは月に1回程度。
しかも、仕事のスケジュールが常に詰まっていたので、僕が大阪に会いに行くことは難しく、いつもはるに僕がいる県まで来てもらってばかりいました。そのことは今でも感謝しております。
お互いに寂しかったり、しんどく感じることも、もちろんありましたが、ちゃんと結婚できて、今ではほぼ24時間一緒にいて旅をしているわけですから、本当に極端だなぁと我ながら面白く感じております。

さて、話を戻します。

僕がその会社で働きながら、学んだことは「やはりどこへ行っても、人が地域で暮らすということは変わらないんだな。」ということです。
ものすごく当たり前のことですが、そんな当たり前のことを確かめたくて僕は、その会社に入ったようなものでした。

またもう一つ、協力隊や出版社営業として、地域で暮らす人々と関わりながら、段々と感じるようになったのは、
「土地に根ざして、自分の暮らしを築いている人には、結局かなわないなぁ。」ということです。
いくら協力隊として地域に住み、地域の人と関わっていても、それはあくまで仮の暮らし。
出版社の営業時代に至っては、暮らしなんてものは全くなく、土地から土地へ、風のように流れていく
旅暮らし。
そんな僕がいくらその土地で暮らしている人に何を言ったって、
結局そこでちゃんと土地に根ざした暮らしを作っている人には、なんと言うか、「かなわない」んですよね。
そう感じるようになってから、僕はようやく始めて「自分も自分の暮らしを作っていきたいなぁ。」と
思えるようになりました。

そうやって少しずつ、自分自身の暮らしへの想いが強くなっていったのです。

さて、忙しく営業の仕事に追われる一方で、僕はお付き合いをしていたはるとの結婚の準備を
ゆっくりと、しかし計画的に、着々と進めておりました。
僕は、はるとお付き合いを始めたときから、「この人と結婚するかもな。」と思っていたし、
はると結婚するということは、極々自然なことでしたので、その決断に迷うということは
ほとんど無かったように思います。むしろ自然なこと過ぎて、ちゃんとしたプロポーズを
し忘れたまま結婚の準備を進めてしまい、結婚式の日取りが決まってから、プロポーズをし直したほどです。

そしてまた、僕たちは、結婚の準備を進めながら、もう一つの大きなプロジェクトを密かに計画していました。
それは、「結婚したら仕事を辞めてハネムーンで世界一周をする」、ことでした。
もともとは二人が付き合い始めたころにはるが言った「いつか世界一周してみたい。」という言葉が
きっかけでした。
その言葉を聞いたとき、僕の心の中で眠っていた夢が目を覚ましました。
僕自身も、以前から「いつか世界一周の旅をして、いろんな国に行ってみたいなぁ。」という想いをなんとなく持っていました。
もともと、あちこち放浪するのが好きなのかもしれません。
しかし、それまではいいタイミングが無く、僕の世界一周の夢は、いったん眠りについていたのです。
「これがそのタイミングだ。」と僕は思いました。

「一緒に行こう。」

それから僕たちは、この夢の話をいつも語り合うようになり、やがて結婚から旅立ちにいたるまでのスケジュール
が決まっていきました。

僕には、この世界一周ハネムーンを通して、したいことがありました。
それは、
「世界中のローカルな暮らしが見てみたい。」、ということであり、
「世界中で本当に豊かな暮らしを志向している人々に出会ってみたい。」
ということでした。

僕は、それまでの数年間で協力隊や出版社の営業として、日本中の様々な農山村を回り、
本当の豊かさとは何か、ということを考え、そのヒントを農山村の暮らしから直接感じ取ってきました。
また、若者を中心に、農山村のローカルな暮らし方に、日本人の関心が段々と向かってきていることも肌で感じていました。
そんな経験の中で、「では日本以外の、世界の国々ではどうなっているんだろう。」
という好奇心が日に日に大きくなっていました。
かつて、僕がヘレナ・ノーバーグホッジさんの講演を聞いたとき、
ヘレナさんはこう言っていました。
「ローカリゼーションの波が世界中で起き始めている。」と。

僕は、世界一周ハネムーンを通して、「その波を自分の目で確かめたい!」、と強く思うようになりました。
僕たちと同じように、本当の豊かさを求めてローカル化を志向する人達が世界中にいるのかもしれない。
そう考えると、なんだかワクワクしました。
僕は、そんな人たちとの出会いを通して、「本当の豊かさをもったステキな暮らし」とはどんなものかを自分たちなりにイメージして、旅を終えた後、今度は自分たちのしたい「ステキな暮らし」を形にしていきたい!と夢見るようになっていったのでした。



そしてそして、・・・・・・

2014年4月ついに僕たちはこの世界一周ハネムーンの旅をスタートさせたのでした!!!

一体どんな出会いが僕たちを待っていたのか!?・・・・・


それは、・・・・

これから少しずつ記事にして更新していきたいと思います。


ということで、前回と今回の2回に分けて、

「なぜ僕は『ステキに暮らしたい』のか~夫まちゃの場合」というテーマで、
僕がなぜこんな旅をするようになったか、ステキな暮らしに関心をもち研究しているのか、
ということを、これまでの自分の経験を振り返りながら、かなり長い文章にて書かせていただきました。

結構マジメに書きました。

が、頭と心の中にある想いをどれだけうまく言葉に出来たか、
どれだけ正しく皆さんに伝えることが出来たか、わかりません。

「こういう人もいるんだなぁ」ぐらいに思っていただけたら、幸いです。
大事なことは、多様な生き方が広がっていくこと、そしてそれが可能な社会であること、
だと思っています。

ここまで全て読んでくれた方、
本当にありがとうございます!!!

これからは、もっと軽~い記事も書いていく予定なので、
良かったらちょこちょこ覗いてみてください。

次回は、妻のはるが記事を担当する予定です。

それではまた!

byまちゃ

こんにちは。まちゃです。

さっそくですが、今回の記事のテーマは、
「なぜ僕は『ステキな暮らし』を夢見て世界を旅しているのか。」
です。

長文になりそうなので、結論だけ、すごく簡単に言いますと、

僕の関心は、国際協力→グローバリゼーションへの疑問→ローカリゼーションと日本の農山村の暮らし
→世界のステキな暮らし→「自分の想うステキな暮らしを形にしたい!」という具合に移り変わってきた。
そして、それらは全てつながっていて、世の中への想いが根っこにある。

ということです。

これを書かないと、どうしてもこのブログを始められません。
自分自身の振り返りと記録、再確認のためにも。
自分の心の中にある想いを、言葉にするのはすごく難しいし、照れくさいですし、これを読むみなさんに
うまく伝わるかどうか不安もありますが、書いてみます。
もし良かったら、お付き合いください。


~~~~~~~~~~~~
話は、学生時代まで遡ります。

今から10年前、僕は東京の大学に通う大学1年生でした。

大学に入ったばかりのころは、中学生の時からやっていたストリートダンスが僕の生活の中心でした。
ダンスサークルに入っていて、ダンススクールにも通っていました。
僕は昔から、どういうわけか踊ることが大好きでした。

その一方で僕の頭の中にあったのは、「世界平和に貢献したい。世の中を良い方へ変えていきたい。」
という漠然とした想いです。そうした想いは、少年時代から今に至るまで、ずっと僕の心の奥にあります。
それは、小さいときから「最も尊い生き方とは、世のため、人のために生きることなんだよ。」と、
育てられてきた環境のせいもあるのかもしれません。

さて、大学1年も終わりの頃になると、それまでのダンス中心の学生生活が、なんだかとてつもなく虚しいものに感じてられてきました。
限られた大学生生活の4分の1が終わろうとしているのに、自分の内面は何も成長していなかったし、将来のビジョンや夢も何も見えていませんでした。

「このままではいけない!」と思い直し、私はダンスから少し距離を置き、自分がこれからの人生どう生きていきたいのか、真剣に考えるようになりました。

しかし、私の中には「世界平和に貢献したい。」という漠然とした想いはありましたが、「一体世界平和って何なのか?」「世の中を良い方へ変えるってどう変えるのよ?」「良い方向てどういう方向よ?」とわからないことだらけでした。

そんな私が最初に関心を持った分野は国際協力の分野でした。

世界平和に貢献する仕事といえば国連やNGOなどの国際協力の分野かな、と思ったからです。

そう思った私は、国際協力の仕事について調べたり、NGOの国際ボランティアなどに参加するようになりました。

ちなみに、その頃参加したNICEという国際ワークキャンプNGOで、後に僕の妻となる、はると出会いました。
といっても学生のときは、ただの友達で数回しか会ったことはありませんでしたが。

話を戻します。

さて、そんなことをしているうちに、私は国際協力について、次のような違和感を感じるようになりました。

国際協力といわれる分野において、
先進国は発展途上国に対して、先進国的な豊かさを一方的に押し付けてしまっている場合もあるのではないか。
しかし、果たしてその先進国の方は本当に豊かなのだろうか。
先進国にだって問題はたくさんある。
むしろ途上国と呼ばれる地域の方が優れていた部分もあるんじゃないか。
そもそも、国際協力って一部の特別な立場の人たちがやることじゃなくて、
もっと身近で、普通に生活している全ての人に関係していることなんじゃないのか。

もちろん地域の文化や自立性を大切にした国際協力もあると思いますが、
グローバリズムを前提とした国際協力のあり方や、グローバリゼーションという大きな流れそのものに対して、
私は疑問を持つようになりました。

「今のグローバリゼーションが当たり前のように進めば、
世界はどうなっちゃうんだろうか?」
「もっと別の豊かさを持った世界のあり方が考えられないだろうか?」

そんな疑問が自分の中でもやもやとしていました。

それについてすっきりした答えがでないまま、時は大学3年の後半になっていました。
周りでは就職活動が始まり、あわただしい雰囲気です。
僕も最初のうちは、いくつか会社説明会に行ったりしてみましたが、
どうもしっくりきません。

それよりも、「グローバリゼーションとは違う世の中のあり方が考えられないか」、
僕の頭の中はそれでいっぱいでした。

それっきり僕は就職活動はほとんどしなくなり、自分の疑問に集中することにしました。
すっきりしないまま、なんとなく周りに流されて就職活動しても仕方ないと思ったからです。

そしてその頃、僕は日本の農山村の暮らしに関心を持ち始めていました。

グローバリゼーション的な豊かさではない、本当の豊かさのヒントが農山村の暮らしに
あるのではないか、と思ったからです。

農山村の暮らしに興味を持ったきっかけは、先述した国際ワークキャンプNGO・NICE
での経験でした。

僕は、大学2年と3年の夏に新潟県の佐渡島で行われた国際ワークキャンプに参加していました。
それは、日本と海外からの学生が共に共同キャンプ生活をしながら、佐渡で行われる音楽フェスや地域の祭り、
里山保全活動などに参加する、国際交流プログラムでした。

そこで、僕は初めて日本の農山村の暮らしと出会い、一種のカルチャーショックを受けました。
僕が生まれ育った街は、神奈川県鎌倉市です。
海も山も近くて、自然を身近に感じられる土地ではありますが、暮らしは都会的です。

佐渡では、自分の街とは違う暮らしがありました。
地域で出会う人たちは、自分で食べる野菜や米を作り、船に乗って漁にも行きます。
そのへんのおばあちゃんに道を尋ねれば、「持っていくかい。」と段ボール箱いっぱいの野菜をくれました。
お世話になっていた博物館の館長は、「これ獲ったから、食べな。」とこれまた大量のサザエを持ってきてくれたりしました。

こうやって暮らしている人たちが、同じ日本にいる、ということが驚きでした。
自然とのつながりや地域とのつながり、必要なものは自分で作る自給の力が
多く残されていると感じました。
しかも、こうした地域では仕事が無く、若者が住まなくなって人が減っている、という。
一体、農山村の暮らし、現実とはどういうものなのか。

また、同じころ、僕が出会い、影響を強く受けた考え方が、ローカリゼーションという考え方です。
あるとき、僕は知人に誘われて、東京の明治学院大学で行われたある講演会に参加しました。
それはヘレナ・ノーバッグホッジさんという方の講演会でした。

ヘレナさんはインドのラダック地方での経験を基にして、「懐かしい未来」という本を著された方です。

「懐かしい未来」の中では、グローバリゼーションによって、それまで自給的で自立した生活を送っていたラダックの人々の暮らし
がどのように変わっていったか、ということが書かれています。

ヘレナさんのお話は、自分にとって、とても共感できる内容でした。
それまで自分の中にあったグローバリゼーションへの違和感を言い当ててもらったような感じでした。

講演の中で、ヘレナさんはグローバリゼーションの問題を指摘した上で、それに対する動きとして
ローカリゼーションという考え方を話してくれました。

ローカリゼーションとは、ローカル化、つまり、ローカルでできることはローカルでやる、ということ。

たとえば、食のローカル化といえば、
自分で食べるものは自分でつくる、とか。
できるだけ地域でとれたものを食べるとか。

ローカル化は食以外にも、エネルギーのローカル化、金融のローカル化、などなどあらゆる分野で考えられます。

ローカリゼーションとは、グローバリゼーションによって切り離されてきたあらゆるものとのつながりを取り戻すこと。
自然とのつながり、地域とのつながり、自分とのつながりを取り戻していくこと。

そして、このローカリゼーションの動きが、今、世界中で
少しずつ起こり始めている、という話も、僕をワクワクさせてくれました。

ヘレナさんの講演で、このローカリゼーションという考え方と出会い、
確かにそういう方向に本当の人間らしい豊かさへのヒントがあるのかもしれない、と僕は思うようになりました。人や文化の交流がグローバルに広がっていくのは良いことだけれど、かといって何でもかんでもグローバル化すると、色々おかしくなっちゃうんじゃないか、と。


大学4年になり、周りがだんだんと就職を決めていく中で、
僕は実際に農山村で暮らしみたいという気持ちになっていました。
自給的・自立的な暮らし方が日本の農山村にどれだけ残っているのか、
、どんな現実が起こっているのか、自分で経験して確かめてみたかったのです。
ヘレナさんの話にも背中を押され、僕の農山村行きの気持ちは
固まっていました。

それから僕は、どうしたら農山村へ行けるか、その方法を探していました。
色々な方法を検討しましたが、これだという道が見つからないまま、大学4年も終わりに近づいていました。

そんな時、当時僕がインターンをしていた山梨県のとある地域づくりNPOで、「これ良さそうですよ。」
と、あるプログラムを教えてもらいました。

それは、緑のふるさと協力隊、というもの。
東京に事務所がある、地球緑化センターというNGOがやっているプログラムで、
簡単に言えば、青年海外協力隊の国内農山村版といった感じ。

都会出身の若者を1年間、日本の農山村に送り込んで、地域で暮らしてもらう。
そして、地域の農林業や地域活動、様々な仕事を経験させる。
そうして、農山村で暮らす人々、都会の若者、お互いの気づきや変化につながるかもしれない。。
というようなプログラムでした。

詳しく調べてみると、生活費は月5万円。車と住居は提供されて、光熱費や車のガソリン代などは負担してもらえる、とのこと。
地域の中で、お金に頼らない暮らしを学びたかった自分には、ぴったりのプログラムでした。

「これだ!」と思い、さっそく参加志望書を送り、面接を経て、晴れて参加が決定しました。
大学卒業の1ヶ月ちょい前のことでした。

僕の選んだ道について、親はとても心配していましたが、最終的には応援してくれました。

そうして大学卒業後の春から1年間、僕の農山村での暮らしが始まるわけでありました。


とまだ話は続きますが、ひとまず今回はここまでにします。
ここまで全部読んでくれた方、ありがとうございます!

次回『なぜ「ステキに暮らしたい」のか~夫まちゃの場合(後編)』へ続きます。


byまちゃ

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